RAPT理論

中国からの侵略者 禹王家

皆さん、こんにちは。

hikoです。

今回は日本を侵略してきた中国王家の末裔についてお話しします。

過去の記事で中国王家について調べているので、そちらの記事からご覧ください。

日本の権力者の中に禹王家が侵入していることが判明していますが、その侵略史や日本文化への影響など細かい部分について言及していきます。

ーーーーこちらから転載ーーーー

(転載記事は文量が多いため、まとめまでジャンプできます。)

まとめへ移動

  1. 夏王朝と禹
  2. 伝統社会の基層は宗族制
  3. 封建制と郡県制
  4. 秦の天下統一は法家の力
  5. 秦の始皇帝と五行思想
  6. 漢王朝と儒教
  7. 貴族社会から官僚国家へ
  8. 中国の領域拡大と客家
  9. 道観(道教寺院)の調査から

※文の構成を読み易いように一部修正しております。

禹の治水と中国史の流れ

(写真は中国の紹興にある大禹陵)

夏王朝と禹

中国の伝統というのは長い歴史と深くて広い内容があります。

神話の時代から確かな歴史時代にかけて、中国には夏殷周という三代の王朝があったとされています。

夏王朝は中国の史書には初代の禹から末代の桀まで17代、ほぼ471年続いたと記録されています。

従来、伝説上の王朝とされてきましたが、近年、実在が見直されています。

文字史料が発掘されたわけではありませんので、文献史料のいう夏王朝が実在したことを直接証明はできませんが、中国現代の歴史学界や考古学界では実在したものとみなされています。

この夏王朝を開いた人物が禹でした。

『尚書(書経)』の「堯典」によれば堯帝の時代に大洪水が起こったので、堯帝は禹の父親である鯀に治水を命じました。

しかし、9年たっても成果が上がりませんでした。

また『尚書』の「洪範」には、鯀が洪水を塞ごうとしたときに五行を乱したので殺されたとあります。

『山海経』の「海内経」には、帝の息壌(自然に盛り上がってくる土)を盗んで洪水をふさいだが、帝の怒りを買って殺されたとあります。

いずれにせよ、鯀の治水事業は失敗したわけです。

鯀の事業を受け継いで治水に当たったのが息子の禹です。

禹は鯀が誅されたときに、鯀の腹から生まれたという伝説があります。

また、鯀も禹も元は水神で、鯀は亀、禹は龍の化身であり、亀信仰部族から龍信仰部族に勢力が交代したのだという説もあります。

鯀の治水方法は「堙(水没地帯を埋め立てる方法)」といい、禹の治水方法は「疏(水路を切り拓き堤防を築いて洪水を流す方法)」とされていますが、禹は「堙」方式も採用しており、両者の間で基本的には大差がないとする議論もあります。

では、なぜ鯀は失敗者となり禹は成功者とされたのでしょうか。

これは簡単に結論を出せる問題ではありませんが、例えば民族や部族間闘争の反映、信仰形態の違い、神話の伝承系統の相違、後世の歴史家らによる合理づけなどが要因として挙げられます。

ただ、治水事業や自然観察の経験を蓄積することによって、「堙」よりも「疏」の方が水の性質に適合しており、「疏」こそが治水の基本なのだという認識が一般化したということは言えそうです。

ずっと後世のことになりますが、中国の戦国時代(前4世紀頃)に活躍した孟子は、楊朱という人物を批判して「楊朱という奴は脛の毛を一本抜けば天下が救われるという場合でもその毛一本さえ抜かない」と言いました。

その意味は楊朱は自分のことしか考えない奴だということです。

孟子の言葉には拠り所があり、禹が泥の中を這い回って治水に苦心し、そのために脛の毛がみな抜けてしまったという話が前提になっています。

ですから「脛の毛を抜く」という言葉だけをとらえたなら、それだけで社会が救われるというわけはないのですが、これは自分を犠牲にして労働するという意味にとらえなくてはならないのです。

禹のことがわからなければ意味は通じません。

堯帝の後を嗣いだ舜帝から治水の功績により、禹は帝位を譲られました。

その後は代々禹の子孫が帝位を嗣いだので、ここに中国最初の世襲王朝(夏王朝)が成立しました。

禹の治水事業は中国人の間に伝説となって継承され、今日でも中国各地に禹王廟が残っています。

日本にも禹に関わる碑や地名が20箇所以上もあると聞いて驚きました。

我が先祖たちにとっていかに治水事業が重大なものであったか、日本人がいかに中国の歴史・伝説に学んだかが分かります。

ところで禹は、後世、堯・舜・禹・殷の湯王・周の文王・武王と並べて聖人として尊敬されました。

特にそうした系列を尊崇したのは儒家の人たちでした。

なぜ儒家の人々は禹をそれほどまで尊敬したのでしょうか。

そこには儒家独特の見方がありますので、次に儒家の思想を見てみましょう。

伝統社会の基層は宗族制

儒家は孔子が始めたということになっていますが、孔子自身は「述べてつくらず、信じて古を好む」と言っています。

「自分はなにも創造的なことを言っているわけではない、昔のことを言っているだけだ」というのですから、孔子から儒家が始まったというのは本来おかしな言い方なんです。

孔子が言った「いにしえ」というのは周の初めのことで、具体的にいえば周公旦の教えです。

さまざまな政治制度や法の規定、文化の在り方など、一切合切を周公旦が基を創ったとされました。

それが崩れてきたから孔子は周公旦の精神に立ち戻った社会にしようという努力をしたわけです。

しかし、これは孔子の考えであって実際に周公旦がこういうことをやったかどうかは別問題です。

周は前11世紀後半から前256年までの王朝で、前半の前8世紀初めころまでを西周といい、その後を東周といいます。

西周は西安のそばにある鎬京という所を都としました。

しかし、西から来た異民族に圧迫されて洛陽近辺に都を移しました。

それから後を東周といいます。

東周の前半、前5世紀半ばまでを春秋時代といい、そのあとを戦国時代といいます。

周王の権威は春秋くらいまでは何とか保たれましたが、戦国時代になると周は洛陽を中心とする小地方権力に過ぎないものとなりました。

孔子は春秋の末期に生まれ、失われてゆく周の秩序を何とかして回復しようと努力をしたのです。

孔子の考えた周の秩序は宗族制と封建制の形で保たれていたものです。

宗族というのは、祖父—父—自分(男)—息子—孫というような男子の系統、つまり男系一族を指す言葉です。

宗族制は宗族の結束を強くする祖先崇拝と、成員の宗族内での位置によって決まってくる日常の行動ルール、言い換えれば「礼」を尊重することによって維持されてきました。

その伝統が中国の人たちに「関係こそが大事なのだ」という意識を植えつけました。

私は1980年(昭和55)以降、何度も中国に行きましたが行くたびに痛感するのは、人間関係のネットワークに入り込まなければ何もできないということです。

宗族制には「礼」の秩序が欠かせませんが、礼は君臣の間での作法、諸侯や臣下同士の訪問の儀式、冠婚葬祭の式次第などまで含む形式であると同時に、もっと大切なことはそうした形式を成り立たせている気持ち(道徳)だと考えられました。

孔子は人として最も大切な気持ちは「仁」だと考えましたが、仁の気持ちは親や兄に対する気持ちがもとになっています。

つまり、親に対する孝、兄に対する悌です。

孝悌のうち特に大事なのは孝です。

孝とは具体的に言えば父母に対して食べものや飲みものを捧げて大切にするということです。

そういう孝を一番の基本にして出てくる徳目が仁なんですね。

仁を大切にしたというのは、やはり目上の者に仕えるということが基本になります。

仁とは、親に対する孝を一般的な人と人の関係にまで拡大していった考え方ということになります。

禹は治水事業を成功させた点が評価されたばかりでなく、孝の徳目を身につけていた点でも評価されました。

『論語』の「泰伯」には、孔子の言葉として「禹は吾れ間然することなし。飲食を菲くして孝を鬼神に致し…」という発言が見えます。

「禹は文句の付けようがない。自分の飲食物を粗末なものにして、先祖の御霊に孝行した」という意味です。

先祖に孝行するというのは、先祖の神霊に飲食物を捧げて立派にお祀りをしたということです。

存命中の親に対しても亡くなった先祖に対しても飲食物を捧げるというのが孝だったのですね。

禹は儒教の聖人としても尊敬されたわけです。

宗族の「宗」というのは、家の中で先祖の神霊が祀ってある大事な所という意味です。

ですから、大本の意味になります。

清朝の末期に日本から宗教という言葉が入ってきたときに、中国人には宗教なんていう発想はありませんでしたから、一番大事な教えという意味でとらえました。

そして中国で一番大事な教えとは、いったい何だろうと考えました。

それは儒教に他なりません。

そこで儒教は宗教であるという風につながっていくんです。

しかし、儒教には必ずしもいわゆる宗教とはいえない面があります。

社会体制であり、道徳であり、政治理念ですね。

キリスト教とか仏教とは違いますね。

ただし、先祖の神霊を拝むわけですから似たところもあります。

元来、天を拝み、先祖を拝み、食べものや飲みものを捧げて神として祀ったわけですから、その面からいったら宗教と言って言えないことはありません。

微妙なところですね。

封建制と郡県制

宗族制と並んで周の大事な制度として封建制がありました。

封建制は周が殷を滅ぼしたときに武王が一族の者や功臣に「そなたはここに国を建てろ」と土地を与えてできた制度です。

土地に封じて国を建てるから封建というのです。

周の人たちは殷を滅ぼしたのは殷王が暴虐で天(最高の神さまである天帝のこと)を侮ってきちんと祀らなかったからであり、そこで天は天をよく祀っている周に殷に代わって王朝を開けという天命を与えたのだと主張しました。

天を祀るというのは、王が定められた日時に決まった場所で決まった手順を踏んで飲食物を捧げて行なうことです。

そのことを周の人は徳と呼びました。

封建制の根底には王の徳があったのです。

武王や周公が殷には徳がなく周には徳があると強調したことは『尚書』の中に出てきます。

ただ歴史的事実としては、その全部を信じるわけにはいきませんけれども。

孔子も周には徳があったから天命を受けたのだということを一所懸命宣伝したんです。

この徳は後世の道徳の徳とは違って神に飲食物を捧げて祀るという意味ですが、先祖の神霊を祀ることも徳であるということになってきます。

この徳を道徳の意味にまで深めたのは孔子でした。

孔子の考えでは封建制と宗族制の秩序がきちんと保たれていることが大切でした。

徳に基づく封建制の理念、祖先崇拝や親孝行を中心とした宗族のまとまり、これらをきちんと維持しようとしたのです。

そして、天を祀っていいのは周王だけでそれ以外の人がやったら越権行為なんです。

天を祀るのと同様、地を祀るのも、天下の名山を祀るのも周王だけ。

それらの祀りを、いつ、どういう風にして祀るかという規定も、事細かに決められていました。

封建制や宗族制の秩序の中心が「祀る」ということなんです。

そして、儒というのは祀りを担当する人という意味でそういう人を総称して儒家といったわけです。

ところが孔子が生きた春秋の末ごろには、封建制の秩序がだいぶ崩壊していました。

諸侯同士が周王の命令も待たずに勝手に戦争をし、本来は周王から封建されたものである他国を滅ぼし、自国の領地を広げていったのです。

春秋の初めには国が140ぐらいあったといわれているんですが、春秋末期には40ぐらいに減少しています。

次の戦国時代になるとさらに減って、主な国は七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)といわれるように、どんどん少なくなっていったのです。

周王の権威もまったくなくなってしまいました。

自国に近い国を滅ぼしたら自国にくっつけます。

つまり県です。

県の本字は縣でこれは懸と同じ意味で『ぶら下がる』という意味を持ちます。

本国にぶら下げたわけです。

ところが時代が進んで大規模な戦争が起こるようになりますと、本国から遠く離れた国々を征服するようなことが起きます。

そうした場合、その地域をまとめて統括するようにしました。

それが郡です。

まとまった多くのものという意味で群と同じ意味です。

日本の行政系統ですと某県某郡となりますけれど、中国は県よりも郡のほうがずっと格が上です。

このように統治に際して郡と県をつくり出していったのが郡県制です。

郡や県には本国から官僚を派遣して統治させました。

封建制の根底には徳があり、然るべき血筋の者が国君として統治するのですが、郡県制では統治の能力こそが重要で時代の要請は徳から能へと転換していったのです。

秦の天下統一は法家の力

戦国の七雄の中で勝ち残ったのは秦でした。

秦の始皇帝は前221年に全国を統一して秦王朝を開きました。

始皇帝は郡県制を徹底して推し進め、統一後は中国全体を36の郡にしました。

しかし秦は、はじめから郡県制の国というわけではありません。

その方向へと強力に推し進めた人物がいたのです。

孝公(前361〜前338年在位)の時代に活躍した商鞅(約前390〜前338年)という人物です。

商鞅は衛の人でしたが、秦に行って孝公に仕えました。

商鞅が進めた政策は法令を最も重視するもので、商鞅は法家に分類されます。

人民に知識を持たせる必要はない。国の政策としては農業だけをやる」として、商業や工業を徹底的に否定しました。

商業で金儲けをするようになると、みんながそちらに頭を使うようになって農業が疎かになる。

また、議論に優れた人を官僚として採用するのもダメ。

そんなことをしたら、みんな議論ばかりして農業をやらなくなってしまう。

工芸品をつくるのもいけない。

工芸品がいくら立派でも国は強くならないというわけです。

でも、人はみんな豊かになりたいですよね。

ですから元気な農民は兵隊になって、その功績のみに賞を与えるという考えで強国を作ろうとしました。

ですから、貴族が勝手なことをするなんていうのはもってのほかです。

こうした政策を貫徹するために、商鞅は法というものを非常に重視しました。

法を犯した人間は厳罰に処しました。

罪を犯した者だけではなく、一族すべてに連帯責任を負わせたのです。

政府の政策としては、十のうち九は罰で褒めるのは一だけです。

あるとき皇太子が法を犯しましたが、まさか皇太子を罰するわけにはいきませんので、後見役の公子虔を罰して教育係の額に入墨を施しました。

のちに公子虔がまた規律を犯しましたので鼻削ぎの刑にしました。

秦の人々は法を守るようになりましたが、商鞅は大いに憎まれます。

商鞅は宰相となり秦は強国になりましたが、孝公が亡くなると皇太子が即位して恵文王となり、公子虔は商鞅が反逆を謀っていると告発しました。

商鞅は秦の都から逃亡して途中で宿に泊まろうとしますが、宿の主人は「商鞅様の法令で、手形を持たない旅人を泊めると罰せられます」と断られてしまいます。

商鞅はいったん魏に逃げますが追放され、封地の商で秦の討伐軍に攻められて殺されました。

恵文王の命令で遺骸は車裂きの刑に処せられました。

このように非常に恨まれた人物ですが、商鞅のお蔭で秦はたいへん強い国になりました。

そのような法家の路線を受け継いでいったから、始皇帝も天下統一できたのです。

始皇帝が行なったことの一つに焚書坑儒というのがありますが、書物を焼き儒者を穴埋めにするというのは商鞅が考えた教えを継承しているのです。

このように法家の理念というのは、法令を重視した君主の意のままになる官僚がいて、その官僚が身分に応じて民衆をコントロールしていくというものです。

つまり、徳なんていうものは全然関係がなくなったのです。

秦の始皇帝と五行思想

秦の始皇帝は極端な法治主義をとりました。

その拠り所の一つが五行思想です。

五行思想とは戦国時代の半ばごろから出てきたもので、元来は堯舜→禹→殷周という王朝の推移を理論づける思想でした。

つまり、なぜこのように王朝は推移したのかという根拠を分析したものです。

五行とは木火土金水(もっかどごんすい)という五つの要素、もしくは原理のことです。

木は燃えるから火を生み、火は物を燃して土を生み、土からは金属が産出し、金は溶けて水を生み、水はまた木を育てるというように、五行は次の要素を生みだす方向で循環します(これを五行相生と言います)。

また、木は金属のナタに切られますし、金は火に溶かされますし、火は水に消されるというように、勝ち負けの関係にもあります(これを五行相勝または相克と言います)。

また、土の要素を持つものは土徳(どとく)があると言い、火の要素を持つものは火徳があるといいます。

王朝はみな土徳とか火徳とか何らかの徳があると考えられました。

こうした五行の関係によって王朝も交替したと考えたのです。

例えば、木徳の王朝の次は火徳の王朝になります。

木徳の王朝を戦争で滅ぼしてできた王朝なら、木に勝つ金徳の王朝になります。

五行思想は後々さまざまな事象に当てはめられ、天地の間に存在するあらゆる物事の推移や変化を説明する思想となりました。

いわば中国の世界観となったと言ってもいいと思います。

五徳の内、特に土徳が重視されましたが、その根拠は農業を生産の基本にしていたからです。

農業生産を安定させるという行為がいかに重要だったかが理解できると思います。

高貴な色が黄色とされるのも土徳には黄色が配当されているからです。

農村社会の基本は春に種を蒔き、夏に成長させ、秋に収穫して、冬に休息するという生活様式です。

ですから時節は一年を単位として循環、再生するものだという意識も生まれました。

周の文王のときに赤い烏が赤い文字で書かれた文書を咥えて周のやしろに集まるという現象があったので、周は火徳とされました。

秦は周王朝を破ったのですから、秦王朝は火に勝つ水徳だと自負しました。

水徳の内容には北・黒・冬・六・厳格などの原則があります。

そこで秦の旗は黒でしたし、正月は冬の初めです。

統一後、中国全体を36郡にしたのも、六の二乗だからです。

もともと法令尊重の伝統がある上に、始皇帝の統治が一段と厳格だったのは五行思想に拠っていたのですね。

漢王朝と儒教

秦はあまりにも急激かつ厳格に法令による政治をとったため、短時日で亡んでしまいました。

秦に続く漢(前漢)は、南方の楚から出てきた項羽を、河南あたりから出てきた劉邦が破って、前206年に全国統一を果たした王朝です。

漢王朝の力というのは、当初、中国全体の3分の1ぐらいにしか及びませんでした。

直接統治できた所は郡とし、力が及ばない諸侯王の領域は国と称しましたから、郡国制と言われています。

漢の初期には、国を滅ぼして郡の力、つまり王朝の力を強めようとしました。

それが完成してくるのは、王朝ができて100年ぐらい経った、第7代皇帝の武帝あたりの時代です。

最初はともかく政権を安定させなくちゃいけません。

人民は秦末の戦乱で疲弊していますから、まずは人民の力を回復しなければなりません。

そのときの拠り所となった思想は黄老思想と呼ばれます。

つまり黄帝と老子の思想です。

黄老思想とは、できるだけ政府の干渉を避け、人々の生活力が自然に回復するのを待つというものです。

黄帝は実在の王というより伝説上の古代の帝王ですが、中国文明の基を創った帝王として知られています。

老子は実在の人物とすれば春秋末から戦国の初めころに活躍したことになります。

文帝(第5代皇帝)や景帝(第6代皇帝)のときも黄老思想が有力でした。

しかし、実際には法令によって王朝の力を強くしたいというのが本音です。

それで法律を重視する法家的な政策に近づいていきます。

法律というのは普遍性がありますから、現代のように万民に平等に適応されるわけではないとしても、どんな人でもあることをやったら罰を受ける、ということになっていないと機能しません。

そういう法家的な傾向が、文帝時代あたりからちらほら見受けられるようになります。

文帝も景帝も表面上は黄老思想を尊重した穏やかな人とされますが、実際には法家的な人材が登用されているわけです。

しかし、秦の例もありますので、法家政策をぱっと表に出すわけにいきませんから、慎重に行動したのです。

宗族制も根強く残っていますので、建前は儒教でやったわけですよ。

道徳も宗族制で重要な孝の徳を忠の徳と読み替えていくのです。

忠は、元来はまごころというような意味ですが、漢代では忠君の意味に転化していきました。

官僚制の職責も封建制の身分に読み替えていきます。

封建制というのは王がいて諸侯がいて、王にも諸侯にも臣下として卿(けい)・大夫(たいふ)・士(し)という身分がありました。

卿などは君主の一族がなっている場合がけっこうあります。

そこまでが支配階級で、その下に庶民がいるというヒエラルキーがあるわけです。

そこで、郡太守とか県知事を卿や大夫、士として読み替えていくのです。

本当は法治を推進する官僚なんですけれど、あたかも封建制の臣下のごとくに思わせるようにしたのです。

そもそも宗族制というのは男系の血族集団として閉鎖的にまとまる傾向にあります。

地方分権的な社会に適合する組織であって、中央集権制になって宗族の秩序よりも君主の法的な権力だけが強力になるというのでは困るのです。

しかし、皇帝の立場から考えてみますと、宗族なんてないほうがいいし、卿などの貴族なんかいないほうがいいんです。

全国を県とか郡にして自分の官僚に地方を治めさせたほうが都合がいいんです。

そうした両方の都合あるいは利益を調和するものとして儒教が尊重されたのですね。

景帝のときに諸侯王の領地を削減するという法家的な政策が行なわれましたが、そういうことをすると反乱が起きます。

そのときに誰が割を食うかというと、そうした政策を推進した法家的な官僚です。

反乱側の風当たりを弱めるために首を切られてしまいます。

しかし、そうやって段々と封建制的な国の力を弱め、武帝のときにやっと王朝権力が安定してくるんです。

本音を言えば、皇帝は官僚を郡とか県に派遣して、自分の意のままにやりたいんですよ。

しかし、あの広い中国でそうした形で権力を維持するのは不可能ですから、それぞれの地方にある宗族的な社会の存在価値を認めていかないと折り合いがつかない。

それに一番都合のいい思想が儒家思想なんです。

それで武帝のころに儒教一尊といって、儒教以外の思想は尊重しないとなるんですね。

今はいろいろな議論があって「そんなことはなかった」と言う人もいます。

しかし、全体の流れから見ると、前漢という時代に儒家思想はいわば国教になって儒教となったのです。

漢代には概ね官僚は儒教に基づいて採用しました。

武帝が毎年国や郡ごとに孝なる者や廉なる者を、然るべき基準で推挙するように命じたのです。

この選抜制は郷挙里選もしくは選挙といいます。

ちゃんと人事担当官がいて、文字通り、「選んで挙げて」いたのです。

郷挙里選で挙げられるには、知識よりも行動が重視されました。

「あの人は親孝行だ」「財産を気前よく人に施す」というような良い評判が基準になりました。

一番重視されたのは親孝行で、そういう人が太学に行って儒教を勉強して然るべき役職に就く、というようになります。

ですから前漢というのは非常に儒教的な国家だったことが分かります。

後漢になると儒教はもっと盛んになります。

選挙で挙げられた人は官僚になり、やがて豪族化する人も出てきました。

それで後漢では、選挙された人たちが一つの勢力になっていきました。

有力者はほとんど豪族化していきます。

その豪族が貴族化してくるのが三国時代以降で、西晋、東晋以後は多くの大貴族が政権を担ったのです。

貴族社会から官僚国家へ

後漢あたりから唐代まで、豪族・貴族の勢力が非常に強い時代が続きました。

しかし、五代に貴族が全部没落したあと、代わりに出てきたのが宋以降の官僚社会です。

官僚を採用するのに科挙の試験が重視されるようになりました。

科挙の試験自体は隋代からあったのですが、きわめて重要になったのは宋代からです。

唐代の科挙では、一番重視されたのは詩です。

宋以降のように政策論もありましたが、詩を詠むことが一番大切にされました。

しかし、どんなに立派な詩を詠む人だって政治的な能力があるとは限りませんが、そういう時代だったんです。

日本では白楽天が人気がありますが、それはわかりやすいからです。

杜甫の詩は難しい。

東晋や南朝の詩はもっと難しい。

なぜ、難しいのかといえば、多くの表現に典拠(出典)があるからです。

典拠がわからないと、本当の意味は理解できません。

だから大変な教養が必要です。

その典拠たるや、儒教の経典であるとか、歴史書であるとか、あらゆるところから引かれています。

中国の詩は杜甫の詩を代表として、政治的あるいは社会的なことがらが詠まれています。

男女の関係を詠んでも、どこかに社会的な問題がある。

ですから科挙の試験でも詩が重視されたのですね。

中国は歴史始まって以来、徹頭徹尾、政治的な社会でした。

中国の領域拡大と客家

ここで中国領土の拡大について考えてみましょう。

いわゆる中華文明ができたのは3000年くらい前で、せいぜい遡って4000年くらい前のことだと思います。

つまり夏殷周の時代で、中心地は黄河中流域、今の山西と河南の辺りでした。

夏と殷は山西と河南を中心として、河北と安徽の一部ぐらいでしたが、次の周は陝西から起こりました。

山東や河北にも封建国家が生まれています。

春秋時代に入ると、夏殷の山西と河南、西周の陝西に、安徽、山東、江蘇、河北などが加わります。

また、黄河中流域のいわゆる中原諸国とは別に南方には楚が起こりました。

楚の本拠地は湖北と湖南で、河南の南方です。

春秋時代は中原諸国と南方の楚との対立が続いた時代です。

楚は陝西の秦に圧迫され、安徽から最後には山東まで逃げて滅ぼされました。

長江下流には呉や越が起こり、浙江や江西も領域に入ってきました。

秦の始皇帝が全国を統一するころには、四川、浙江、福建、広東、広西あたりまで政権の力が及んだようです。

広西に運河を開削していることをみると、たしかに政権の力はある程度及んでいたでしょう。

しかし、南方が「中国化」してくるのはまだ後代のことでした。

中国では、人口の大移動が4回ありました。

1回目は前漢の末期、2回目は西晋から東晋にかけてで、このときは地縁血縁でまとまった一族郎党が集団で逃げました。

その集団のことを部曲というんですが、部曲単位で逃げたのです。

3回目は唐代の半ば、4回目は満州民族の金が入ってきた時代です。

こうした人口移動を経て、南方が中国化していったわけです。

中華文明の中心は黄河流域から長江流域に移り、さらに南方の珠江まで下がっていくんです。

しかし、その先がない。

それで海外に出ざるを得ません。

一人二人がバラバラと出るのではなく、まとまって海外に出た。

行った先では華人街をつくる。

そのとき中心になるのは宗廟、つまり一族の先祖を祀った廟なんです。

海外に行った者、つまり華僑は宗廟を中心にしてまとまっているのです。

宗族制は変化しながらも、しぶとく生き残っていくわけですね。

民族が北から南に移動したという現象のために他所から来た人だという意味で、客家と呼ばれる人たちが誕生しました。

現在、客家と呼ばれる人々は古くても宋代ぐらいからの人たちのようです。

客家の人たちは故郷を持たずに他人の領域に入っていくわけですから、頼りになるものといったら客家同士の連帯とお金です。

それで客家の人たちは主として経済と政治の分野の一翼を担い、政治家や実業家が多く出ています。

鄧小平もその一人です。

最近は激しく社会が変化していますが、伝統との関わりが無くなったわけではありません。

最近は激しく社会が変化していますが、伝統との関わりが無くなったわけではありません。

中国における近代化は、清朝が滅び中華民国になってすぐというわけではありません。

さまざまな紆余曲折があり、さらに日本との戦争とか文化大革命とか、近代化を阻む要因がいっぱいあって、鄧小平が「改革開放」の旗振りをしてから、やっと現在の中国の基本ができたといえます。

道観(道教寺院)の調査から

最後に私自身の道教調査についてちょっとお話しします。

私は、文化大革命が終息した1970年代半ばから道教が少しずつ復活してきたということで、1985年(昭和60)以降10年ほど調査に行きました。

ご承知のとおり、文化大革命では宗教は否定され、古いものはみんなダメだとされました。

仏教ダメ、道教ダメ、儒教もダメですね。

道観やいろいろな廟もずいぶん壊されました。

神像はことごとく壊され、石碑でさえ、たくさん破壊されました。

道観は建物として残っていても、倉庫とか学校とか別の目的に転用されていました。

道教の文物はよほどの山奥に行かなければ、昔のものは残っていません。

廟などは日本軍が壊したものもあります。

今見られる禹王廟も、だいたいが新しいものだと思います。

その後、外国からの圧力もあって信教の自由が認められました。

しかし、道観の外に出て民衆に布教するとか、人の家に行って活動することなどは認められませんでした。

現在はだいぶ自由になってきているようです。

道観もかなり再建、修復されています。

東岳廟や媽祖廟なども結構あります。

媽祖は本当は道教の神様ではないんですが、関帝などと同じように道教が取り入れた神様です。

道教は何でもかんでも取り入れますからね。

遡って考えてみると「なんだこれは、カエルじゃないか」というような神様もいます。

そういうのは、特に南方に多いんですよ。

2011年(平成23)の12月に香港で道教の学会がありました。

席上、ある道教学の大家は、現在は道教の黄金時代だと言いました。

経済が発展すればそれだけで良いというわけではなく、やはり精神的拠り所が必要なのでしょうね。

道教はその一つですが、道教界人士の熱気たるや当たるべからざるものがあります。

これから中国社会はどこに向かうのか、道教の動向も含めて、注意して見ていきたいと思っています。

取材:2011年10月25日

(2012年1月18日補訂)

ーーーー転載ここまでーーーー

まとめ(時系列順)

  • 禹は水神として崇められる

  • 鯀(禹の父)は亀
  • 禹は龍の化身

  • 鯀の治水方法は堙
  • 水没地帯を埋め立てる方法

  • 禹の治水方法は疏
  • 水路を切り拓き堤防を築き洪水を流す方法

  • 孔子の教えは周公旦の教え
  • 周公旦の教えは宗族制と封建制

  • 宗族制(周)
  • 男系一族を指す言葉

  • 封建制(周)
  • 人を土地に封じて国を建てる

  • 家の中で先祖の神霊が祀ってある大事な所(大本と表す)

  • 同族を重視した関係

  • 目上の者に仕える

  • 存命中の親に対しても亡くなった先祖に対しても飲食物を捧げる

  • 神に飲食物を捧げて祀る

  • 郡県制(秦)
  • 統治能力が重要
  • (宗族制+封建制の血筋主義に対抗)

  • 法家
  • 人民に知識を持たせる必要はないとして第一次産業を重視

  • 五行思想
  • 王朝の推移を理論づける思想で木火土金水で表現したもの

  • 法治主義
  • 統治能力が重要、法家に五行思想の属性を追加して思想の刷り込みを重視

  • 郡国制(漢)
  • 直接統治できた所は郡、力が及ばない諸侯王の領域は国

  • 黄老思想(秦→漢への移行期)
  • できるだけ政府の干渉を避け、人々の生活力が自然に回復するのを待つもの

  • 漢では宗族制(血筋主義)から郡国制(実力主義)へのすり替え工作が行われる。
  • 血筋→実力
  • 孝の徳→忠の徳
  • 郡太守・県知事→卿・大夫・士

  • 儒教一尊
  • 儒教以外の思想は尊重しない

  • 郷挙里選
  • 官僚は儒教に基づいて採用される、一番重視されたのは親孝行

  • 部曲
  • 地縁血縁でまとまった一族の集団

  • 華僑(中華街)
  • 海外の宗廟を中心に移住した部曲

  • 客家
  • 故郷を持たない他所から来た人だという意味で、客家同士の連帯とお金を用いて政治家や実業家を排出する人々

儒教の正体を網羅している参考資料なので、とても多い文量ですが概ね掲載させて頂きました。

私は儒教の本質を確認していくなかで、人間に対する愛の無さが目立つことに驚きました。

また、儒教の考えは支配層の都合がふんだんに反映された後付けで、真理が全く無いことにも驚きました。

そして、その先駆者が禹王であり、伝道者が孔子だったというのです。

孔子は人間の酢漬けが大好物の悪魔崇拝者でした。

彼らにとって庶民は人間という扱いをする対象にありません。

故に、罰だけを重んじる悍ましい世界が繰り広げられる結果となっています。

その孔子を崇める日本の権力者たちの本性は言うまでもありません。

もはや中国の世界観が日本にまで及んでいることを理解して、そこから逃れる術を身に付けていきたいと思います。

それでは中国について言及していきますと、中国で最も重要視されるのは親孝行です。

親孝行より善悪は優先されませんし、神よりも親が大事という思想です。

つまり、死が根底にある人間を崇めることになるので、一貫した思想に成り得ないという環境が出来上がります。

つまり、不完全が当たり前の世界。

これが中国全体を取り巻く問題です。

しかし、本来、世界には変わらないものはたくさんあります。

酸素を例に挙げた資料をご覧ください。

免疫システムを正常に作動させるには十分に酸素を吸う必要があることや、常在菌との触れ合いが不可欠であることを阻害する環境が推奨される世の中となりました。

彼らは『当たり前』をすり替えて暴利を貪ることで悪を行っています。

大なり小なり悪が積み上げられたから、人間は堕落しました。

堕落を簡潔に述べると、『間違ったことを正しいとする考え』のことを指します。

そして、その間違った考えでは絶対に幸せにはなれません。

その証拠は皆さんの人生にも思い当たる節があるのではないでしょうか。

私の体験

しかしながら、そこから抜け出すことは間違った考えを植え付けられるよりも容易です。

正解に至れば、問題はいとも簡単に解決するからです。

RAPT有料記事25(2015年11月30日 )わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い。 

それではここからは禹王家による日本の侵略史を紐解いていきたいと思います。

中国からこの悍ましい世界観が、どのようにして日本へやってきたのか。

まず、一族毎に纏まって海外移住をした華僑たちの移住先には、禹王碑がありました。

禹王碑の周りに中国人たちは自らの世界観を崩さずに移住したわけです。

そして、この禹王碑は海路でも活用されており、福建土楼から首里城までの禹跡が痕跡として残されています。

因みに沖縄県では馬尻群南風原町の宇平橋碑のみが現存している禹王碑になります。

禹跡図

華夷図

このように福建土楼から首里城まで禹王碑を辿って日本へやってきていることが分かります。

ここで注目して頂きたいのがジョン・タイターの地図です。

ジョン・タイターという設定の工作は中国人によるものですが、中国人は禹王碑の周りを首都圏とする考えであることが明白となっています。

禹王碑が集中する関西圏までを首都圏としており、残りの禹王碑周辺は政府管理区域としています。

そこで残るのは蝦夷共和国です。

では、蝦夷について言及していきます。

まず、禹王の父である鯀の子孫は東の方角に住む異民族である東夷だとあります。

東夷とは、蝦夷と同義だとありました。

つまり、蝦夷共和国とは禹王一族が治める国だということが分かります。

さらに蝦夷は毛人と記しており、国名は毛野だったとあります。

毛野は群馬県と栃木県の南部を指す言葉でした。

その群馬県を治めたのは青山家です。

禹王一族は青山家であることが浮き彫りとなりましたが、禹王との関わりを資料からも確認したいと思います。

ーーーーこちらから転載ーーーー

まとめへ移動

  1. 眞古文尚書、偽古文尚書、尚書正義
  2. 尚書正義と関東管領、上杉憲實の接点

禹王を祀る原動力 原典テクストの存在

(臨済宗円覚寺派の珠明寺)

『眞古文尚書』『偽古文尚書』『尚書正義』

禹に関する最古の記述は『書経』にあります。

この『書経』中、禹に関する文章は、「禹貢」と「大禹謨」の2カ所にあります。

前者は『新釈漢文大系』の『書経上』にあり、後者は『同 書経下』に入っています。

禹の事績が記される『書経』の古名は『尚書』といい、『書経上』は『眞古文尚書』、『書経下』は『偽古文尚書』とされています。

『眞古文尚書』は秦始皇帝の焚書坑儒を生き延びて、孔子が壁蔵していたものでオリジナル文献。

これに対して『偽古文尚書』は、東晋代(4世紀)になってから書かれた文献です。

すなわち、「大禹謨」は『書経』とはいいながら、司馬遷の著した『史記』以降の文献であることに注意しなければなりません。

以上のことから、禹に関する文献は「禹貢」及び『書経』と、その前に置かれている「堯典」「皐陶謨」(これもまた禹と皐陶の問答)中の禹に関する記述が古く、司馬遷による『史記』がそれらをつないで、今日知られる禹王伝記が書かれたと思われます。

また、聖謨というと君子の政策ということですので、「大禹謨」という題だけ見ますと「偉大な禹のはかりごと(政策)」と解されますが、「謨」は、「誥」(君主の臣下に対する言)に対して「臣下の君主に対する言」という文章形式をさす術語でもあり、実際に『書経』の「大禹謨」を見たところ、禹の偉大な事績を記したというよりは禹の問答集で、「政策」というよりは「問答」と解したほうがよいのではないかと思われます。

ですから、禹を讃える石碑を建てた人は『書経』の「大禹謨」の内容を理解していたのではなく、「大禹謨」を「偉大な禹の方策」と考えて、碑文に選んだのではないでしょうか。

『書経』の中の禹の事績である「禹貢」は淡々と記されていますが、なかなかに味わい深いものです。

『新釈漢文大系 書経上』(明治書院)「禹貢 第11節 導水」及び、禹の貢献をまとめた解説部の表と、『史記』や古地図を見ると、より深い理解が得られるかと思います。

『尚書正義』と関東管領 上杉憲實の接点

『偽古文尚書』の注釈書は、唐代に編纂された『尚書正義』で、これは科挙の試験を受ける者は丸暗記していた書物の一つといわれるほど、重要な内容を持っています。

しかし『尚書正義』の原本は、本家中国では既に失われてしまい、日本の足利学校本(宋の両浙東路、茶塩司刊本)が唯一現存する原典テクストです。

現在も、栃木県の足利学校に国宝指定書籍として所蔵されています。

この『尚書正義』を1439年(永享11)に足利学校に寄進した人物が誰あろう、円覚寺117世蘭室妙薫禅師に協力して神奈川県足柄上郡の班目下河原に上杉一門の菩提供養のために珠明寺を建てた開基の一人であり、関東管領だった上杉憲實です。

上杉憲實は足利学校中興の功労者であり、金沢文庫にあった『尚書正義』を足利学校に納めました。

足利学校本は日本の他の地域にも広がったらしく、江戸時代末期に幕府が古典の刊行を奨励したとき、肥後藩では時習館でこの足利学校本を復刻しています。

現在、完全にそろった版木が、熊本大学に保存されていますが、桧板の両面に各々4ページ分の文字が刻まれており、全部で388枚にのぼります。

足利学校は16世紀の中ごろ、空前の活況を呈し、全国から内地留学者もいたということですから、『尚書正義』を学んで帰った者も多かったことでしょう。

『尚書正義』が当時の日本でよく読まれたことは、江戸の林羅山の「春鑑抄」における引用や、岡山藩の大水害後川除けを行なった熊沢蕃山と藩主池田光政とのやりとりでもわかります。

また、高松城で『尚書正義』の「大禹謨」を講じたのは、勧学家老だった青山家だったことと思います。

青山家は私の夫である岡田の祖母の生家であり、浅からぬ因縁を覚えます。

高松の香東川にも「大禹謨」の碑がありますから、『尚書正義』の線から禹碑探しをしてみるのも大きな手がかりとなり得るのではないでしょうか。

私は、河川改修という大事業に携わる人々に、禹王を祀らせ、その信仰を全国に広げる原動力となったのは、やはりこの公式テクストの存在であったと考えます。

しかもそのテクストの保存に関して、酒匂川大口近くの寺にゆかりの上杉憲實がキーマンであったことが珠明寺訪問から引き出せたことに、歴史の因縁を感じざるを得ません。

ーーーー転載ここまでーーーー

まとめ(時系列)

  • 禹に関する文章は書経にある

  • 新釈漢文大系・書経上 禹貢
  • 新釈漢文大系・書経下 大禹謨

  • 書経の古名は尚書
  • 書経上の古名は眞古文尚書
  • 書経下の古名は偽古文尚書

  • 眞古文尚書は孔子が壁蔵していたオリジナル文献

  • 偽古文尚書の注釈書は尚書正義
  • 尚書正義の原本は珠明寺を開基した上杉憲實が足利学校に寄贈
  • 尚書正義の版木は熊本大学に保存されている
  • 池田光政は尚書正義を活用
  • 高松城で『尚書正義』の「大禹謨」を講じたのは、勧学家老だった青山家

歴史的資料から青山家と禹王一族との関係が明らかとなりました。

順を追って説明していくと、禹王に準ずる池田光政の従兄弟に池田光中(徳川家康の外曾孫)がいます。

池田光中の墓は大名で唯一の玄武でした。

玄武とは、蛇と亀です。

つまり、鯀(禹の父)は亀で禹は龍の化身ですから、禹王を意識した墓にしているということが分かります。

そして、池田光仲からは3代目九鬼家当主が輩出されています。

九鬼家は2代目の九鬼隆基から青山家の養子が継いでいますので、九鬼家は青山家が存続しているという流れになります。

従って、青山家が禹王一族として日本を牛耳る立ち位置にいるということが分かりました。

その青山家は蜂須賀家に仕える身分だったということも付け加えておきます。

ここで青山家の家紋を確認していきます。

青山家や九鬼家の家紋は銭紋と呼ばれます。

九鬼家は九曜紋や七曜紋もあり)

さらに親戚として真田家もここへ加わります。

真田家は黒田家と親戚で、黒田家は九鬼家と親戚です。

そして、黒田家は宇多源氏佐々木氏流とあります。

佐々木氏の家紋は四つ目結でした。

ここで青山氏と佐々木氏の家紋に注目して頂きたいと思います。

この形は福建土楼(客家土楼)そのものであることに気付きました。

禹王一族は客家(銭+人脈)ですから納得できますね。

次は家紋ではないシンボルについての考察になります。

酒匂堰取水口

こちらは田中丘隅が建てた禹王碑になります。

実はこの形は青山家のシンボルとして活用されていることが分かりました。

ダイソー

洋服の青山

山形県旗

青山家の東出融が住んでいる山形県の県旗にも採用されているので、こちらも根拠としては申し分ありません。

『 ^ 』は治水に関するシンボルだったということが分かりました。

このように支配層間で共有されてきた暗号が存在します。

しかし、支配層が立てた専門家はこれらの情報を世には出しません。

故に悪人が隠した秘密がこの世にはたくさんありますので、さらに皆さんと共有していきたいと思います。

それでは続きですが、先程、宇多源氏という名前が登場しました。

宇多源氏は宇多天皇を指す言葉ですが、宇多天皇と禹王についての記述を見ていきます。

ーーーーこちら転載ーーーー

黄河は流れる

孟子は「禹の水を治むるは、水の道なり」と言っている。

禹は黄河において大治水工事を行なったが、それはただ水の本性に従って、水に逆らわず流すべき所に流したまでであったという。

黄河を制する者は、中国を制す」、これは初めて黄河の治水に成功した禹のことを指している。

黄河は暴れ黄竜と呼ばれるように、夏には激しい雨が洪水を起こし、その洪水によって山西省・陝西省地域には大量の黄土の泥が流れ込み、この泥が黄河の川底を浅くして、氾濫の原因となる。

ジュリア・ウオーターロー著『黄河』(偕成社 1995)に、禹の治水方法は、川底をさらって多くの水が流れるようにし、さらに大量の水を分散させる運河までつくったとある。

工事には大勢の人を使い、13年間かけて行なった。おかげでその後何百年洪水を免れたとある。

それ以後の古代王朝でも禹の治水方法を踏襲するが、政治が不安になると、治水事業は疎かになっていき、その後洪水は頻繁に生じた。K・J・グレゴリー著『黄河』(帝国書院 1987)は、上記の書『黄河』と同様に児童書であり、コンパクトに書かれている。

〜以下中略〜

ーーーー転載ここまでーーーー

黄河を制した禹王は中国を制したとあり、その黄河は暴れ黄竜だとあります。

そして、驚くべきことに宇多天皇の前に黄竜が現れたとありました。

この記述を見るに宇多天皇の前に禹王一族が現れたということが理解できます。

つまり、天皇家は禹王家の系譜であることを示唆すると考えます。

では、他の天皇にも焦点を当てていきます。

ーーーーこちらから転載ーーーー

まとめへ移動

  1. 儒教思想と禹
  2. 古代・中世の災害意識
  3. 密教からのアプローチ
  4. 五条大橋に置かれた理由
  5. 都の中心が移動して
  6. 履歴が残る鴨川
  7. 水害の頻度とその理由
  8. 土木技術の向上と天井川
  9. 守られてきた鴨川
  10. 戦後の京都治水

時間・空間で読み解く鴨川、禹廟はなぜ作られたのか

儒教思想と禹

京都における禹廟の初出は『相国寺蔭涼軒日録(1488年)』です。

鴨川の四条南の松原橋に〈禹廟〉があると出ていますが、残念ながら現存しません。

1686年に刊行された地誌『雍州府志』にも2カ所に掲載され、『洛中洛外図(上杉家本・町田家本)』にも描かれています。

ただ、旧五条大橋、現在の松原橋にあったという説に対して、四条橋東詰にあった神明社(現在の南座と仲源寺の間)とする説。

四条橋東詰の仲源寺(浄土宗知恩院派。通称 目疾地蔵として現存)とする説。

四条橋東詰大和橋畔の弁財天社とする説があり、現存しないこともあって、正確な位置は確定できません。

禹廟をつくったのは、平安時代初期に設置された令外官で、鴨川の堤防修築を司った防鴨河使という役職の中原朝臣為兼(勢多判官為兼)です。

仲源寺縁起には、1228年の鴨川の氾濫時に為兼は、後堀河天皇の命により鴨川の視察を行ない、川に流された人が地蔵堂に取りついて助かった場面に出くわして地蔵尊座像を安置したとあります。

為兼は鎌倉時代の人で、武人ではなく博士、学者の系列。

御所に仕える学者の系譜で、儒学系の明経道博士という称号を持っていて、儒学の中身に精通している人だったようです。

だから禹が彼の頭の中にあって、自然に治水と結びついたのかと思います。  

南の禹廟だけでなく、北のほうに弁財天をセットで祀っています。

私は専門外なのですが、これも中国の儒教と関係するのではないでしょうか。

鴨川の禹廟についていえば、中原為兼が儒学に精通し文献から知識を得て治水神として禹廟を祀ったのではないか、そういう可能性が高いと思っています。

古代・中世の災害意識

京の都では、桓武天皇が794年に行なった平安京への遷都以来1200年間、地震や洪水が何度も起こっています。

古代や中世の人たちにとって災害とは、異界からくる恐ろしいもの、神の怒りでした。

災害には水害もあるし、疫病も大きいですね。

それから旱魃、落雷、火事、地震も怖かったのです。

こういうありとあらゆる自然災害とか、疾病という厄災は、すべて異界からきた異物なのです。

それらが時々くる。

それはもう恐ろしいもので、防ぎようがない。

でも防ぎたいから、祈祷をしたり、天や神を敬った。

寺院や密教が発展したのは、そのためでもあります。

本当は皆、災害忌避なのです。

支配階級の人たちにとってみれば、支配するためにも災害は起こってほしくないから、少しでも祈る。

(注釈・密教=悪魔崇拝

それでも深刻な災害になったら天皇は謝るのです。

私の不徳の致すところだと。

そして、人々にお布施をした。

税金を安くするとか、食料を配るとか。

ひどい場合は元号を変えて縁起をかつぐ。

だから何とかして災害の前兆をつかもうと重用したのが、安倍晴明ら陰陽師です。

そして厄災が起こったら、坊さんに祈祷してもらって鎮める。

その祈祷ということで、天皇から支援を得て発展したのが密教です。

桓武天皇は、政治に介入してきてけしからんと南都仏教を批判しました。

そういう桓武にうまく入り込んで信用を得たのは、最澄とか空海とかです。

密教はまさにそういう災害思想や儀式を中国で勉強してきているわけです。

密教からのアプローチ

禹のことは、最澄も空海も当然学んできたはずです。

具体的に書いたものもあります。

しかし、遣隋使や遣唐使になって仏典を学びに行った人たちは、民衆の生活とかはあまり考えていなくて、必死に、とにかく仏教とか密教の奥義を極めて、仏典を日本に持ち帰ることだけが目的なのです。

運が良ければ早く帰れるし、悪ければ20年、30年かかった上に、帰りの船が沈んで命を落とす人もいっぱいいた。

そんな中で、最澄も空海も、仏典をもらって帰国できたラッキーな人でした。

密教の人たちというのは、真剣に災害と向き合ったと思うのですよ。

では、密教の人たちが日本に禹を伝えたのでしょうか。

確証はないけれど、私はそれはちょっと違うような気がする。

密教の人たちにとって、禹が周知のものであることは事実でしょうが、禹は必ずしも災害神、治水神ではないと思うのです。

特に、清廉潔白な天子。

要するに勤勉で、仕事のために頑張ったとか、お酒も飲まないで政務に専念したとかという、そういうものが強く出ているように思うのです。

だから例えば日本書紀では孝徳天皇が、古事記では元明天皇が禹に喩えられている。

日本の禹といわれるぐらい立派な人だったと評価される。

清廉潔白で政務に精通して精進する人という意味で禹が使われています。

割とそれが続いて、おそらく平安時代中期くらいまでは治水神ではなかった。

だから禹が治水神として伝わってきたというのは、今はまだはっきりわからないですが、別のルートではないかと思うのです。

日本には古代から別に瀬織津姫のような治水神がいたので、禹は受け入れられてないのではないか。

須佐之男命だって水の神として祀られていますが、神道で広く見られるのが瀬織津姫を祀った神社でかなりあちこちにあります。

神道系の治水神がある中で禹が入ってくるとある意味、外来神が侵食してくるわけでしょ。

伝統的な日本神道の治水神と、外来の新参の文化が地域や流域の中でどういう風に共存しているのかはたまた反目しているのか。

そういう目で禹を見ていったら、面白いかもしれませんね。

五条大橋に置かれた理由

松原橋、つまり旧五条大橋に禹廟ができた理由は、いくつかあると思います。

規模まではわかりませんが、水害があったこともきっかけでしょう。

京都の人たちからいうと、鴨川の西側、平安京があり人が住んでいる所は、俗な世界。

そして鴨川を渡る東の地区は聖なる世界。

だから、お寺がたくさんある。

こういう聖と俗という分け方は、かなり明瞭にあったわけです。

一つの境界、まさに別世界と境する川が鴨川で、本来は鴨川を越えて人は住まなかった。

これは長い間、守られてきました。

今は東海道で三条が賑わっているけれど、古代はむしろ五条が中心で人の通りが多かった。

西側に抜けて行く街道もあるし、清水寺をはじめ、たくさんのお寺に詣でるための信仰の道があって、あの時代でいうと京都の中で一番人通りの多い橋といえば五条大橋だったと思います。

牛若丸も、まあ、橋はどこでもよくって、賑やかな五条の橋を選んだのではないですかね。

そういう場所に、なぜか理由はわからないけれど、法成寺という安倍晴明にまつわるお寺があるといわれているわけです。

晴明塚があったともいわれている。

ここに陰陽師の塚とか寺があるということは、当時、陰陽師が住んでいた地区と考えられます。

おそらく、禹廟がつくられたころには既に陰陽師が住んでいたのでしょう。

禹の廟をつくるとすれば、人の往来があって目に触れやすく、陰陽師のような集団が管理してくれる場所が都合がよかったということです。

都の中心が移動して

禹廟が現存しないのは、必要性が薄れて祀られなくなって消滅したと考えることもできます。

しかしそうではなくて、例えば陰陽師のような人たちが力を失うとか、予兆をつかんで拝むことに価値を見出さなくなったという可能性もありますね。

日本における文革みたいなことがあったのかもしれない。

「鴨川の治水神」(『花園大学文学部研究紀要』第32号 2000)を書かれた考古学者の山田邦和さんは「豊臣秀吉が陰陽師を嫌って」と書いています。

確証がないからわからないですが、そういう可能性もあります。

山田さんは禹廟の存在した期間を室町中期から1633年(寛永10)と推定し、豊臣秀吉による京都改修によって、五条中州にあった法成寺や晴明塚、禹廟などは取り払われて、姿形を変えて四条に移ったと考えられています。

少なくとも目に見える五条大橋の下なり、中島にあった禹廟は消えるけれど、でもその後継みたいなものが神明社であり、目疾地蔵に姿を変えて、四条に移っていくんです。

古い地図で見ると、神明社は仲源寺の境内の一部にあります。

今は残っていませんが、おそらく移った当初は禹の後継としてあったのではないでしょうか。

人が通る目立つ場所が北に移動して、京都の町全体の構造が五条中心ではなくて、四条中心に変わったことに対応して移っていくのです。

人が集まり、人出が一番賑やかな所。

そこにやはり禹も寄ってくるのですよ。

人が好きなのですよ。

だから私は、秀吉に潰されなくても自然に移ったかもしれないと思っています。

むしろ人目の目立つ所へ行きたがって、四条にきたのではないか。

そういう風に私は逆転して考えてきたのです。

来るべき時と所に、禹は出てくるな、と。

まあ、そういう意味では、今、みんなが集まって、禹に再びフォーカスするということは、災害の神が求められていることなのかもしれないですね。

〈中略〉

履歴が残る鴨川

京都には東側は鴨川、西側は桂川という大きな川が2本流れていますが、桂川は自然堤防を形成した蛇行河川、鴨川は扇状地河川で性質がまったく違います。

ですから、そこにつくられた地形も違うし、川が洪水を起こした場合の災害の在りようも違うわけです。

その辺から京都のことを理解してもらう必要があります。

京都の町の歴史からいうと、西は農業地帯だから、あまり人が住まっていなかった。

だから桂川は記録も少ない。

古い扇状地で地盤が硬く安定していた中央部に平安京が設定されたのですが、右京の西側には、蛇行河川である桂川が、しょっちゅう洪水を起こす場所を広く取り込んでいたのですね。

だから右京は早い時期に衰えていって、平安京の道もすぐに土に埋もれて、やがて水田になっていった。

右京が早く衰退した分だけ、住居と人口は鴨川を越えて東へ東へと移動を続けている。

(注釈・135度文明について)

鴨川には、平安京以来ずっと川辺に人が住んできたから、さまざまな記録が残っています。

水害の頻度とその理由

水害を1000年スパンで見るために、もう一つ別な話をしましょう。

鴨川の水害というのは、ずっと同じ頻度ではなくて、多い時期と少ない時期が繰り返しているのですよ。

河角龍典さんという人がちゃんとデータを出しています。

平安時代は水害の頻度が高かった。

鎌倉から室町ぐらいまでは割と少なくて、安土桃山ぐらいからまた増える。

これは鴨川の洪水を考える場合には非常に大事なことです。

だから鴨川の禹の話も、こういう時代の中でどんな位置にあるか、考える必要があります。

場所の特定だけではなく、時代性の中でとらえる必要があると思います。

平安時代に水害が多いのには、諸説ありますが、私は平安京をつくるときに周辺の森を伐採したことが一番大きい理由だと思います。

当時、材木を集めた範囲は、京都北部の丹波の山地であることは記載にあることです。

主たる理由は、山の森林の乱伐。

そのため、瞬間的に大量に水と土砂が流出してくるという状況になる。

洪水が起こるのは平均雨量ではなくて、その頻度と強さ(集中度)が大事になります。

日本の場合は、梅雨もあるけれど台風が大きく支配しているので、史料をそこまでくわしく分析するのは難しいのですが、台風の襲来頻度が重要になります。

〈中略〉

土木技術の向上と天井川

秀吉時代から再び洪水が増えます。

人口が増えたことと、秀吉は土木魔で、橋はつくる、城をつくって新しい都市を造成するなど、大土木工事をガンガンやります。

これも相当に乱伐・乱開発したようなことがあったと思います。

それで、人口が増えると、やはり山間地を開発して新田や新畑をつくる。

木が茂っている所や山地斜面を切り開くと、どうしても土壌の流出が増えて、谷底に礫や砂が溜まりあふれやすくなります。

今度は、それを守るために堤防をつくろうとする。

技術が向上して、強い堤防がつくれるようになると、堤防と堤防の間(堤外)だけに川の氾濫が限られてきます。

すると、ますます河床が上がる。

それでまた、堤防をかさ上げする、といういたちごっこで天井川ができました。

黄河も、何千年かにわたって堤防を固定しようとしてきたから、天井川になったのと同じなのです。

近畿の天井川っていうのは、このようにして17世紀から18世紀の間にほとんど全部できてしまう。

何百年もかかったのではなくて、100年ぐらいで、あっという間にできた。

それは人間と自然の、共存と対立の関係だと思います。

守られてきた鴨川

水害の頻度が一番上がったのは、やはり幕末、明治維新期、近畿ではほとんどの川で、幕末から明治維新期がピークになります。

(注釈・明治維新は秦氏の仕業)

1800年代(19世紀ごろ)から、ガーンと一気に増えています。

ところが鴨川はあまり、傾向が明瞭ではないのです。それは、江戸時代から、幕府が京都所司代などを置いて、人民支配のために川への対策と工事を行なってきたからです。

やはりどうしても天皇のお膝元であり大きな町だったので、桂川、鴨川の改修は幕末でも力を入れてやっていたのです。

京都を治めるというのは幕府にとって大事なメンツでもあって、大きな改修をやったと思うのですが、その一番典型的なのは寛文の改修、寛文新堤の建設といわれるものです。

これは今でも部分的に残っています。

鴨川は、当時、1kmもの広い幅を持つ扇状地河川。鴨川が細いのは、堤防で川を閉じ込めて、少しでも人間が住む場所をつくろうと土地利用をより効率的にしていった結果です。

都市域で被害が大きいと予想される所は、どうしても堤防で守る、ということになる。

逆に農村地域だったら、堤防をつくるような投資をするよりは、霞堤とかで守って、むしろ水が流れ込むことを歓迎する。

霞堤でなくても竹林を配置してもいいわけです。

農村にはむしろ水を受け入れるという、洪水受容型の考えが見られるのです。

地力を回復するために土を更新してくれるという風に考えれば、あふれることは否定材料だけではありません。

また都市域か農村かという問題だけではなくて、河川のコントロールは、権力者が権力を誇示するための道具であり、支配の手段なのです。

秀吉が土木好きだというのも、人々を納得させるために洪水を防いで、貸しをつくる支配のため。

人民の生活に直結するから、すごい支配力を持ち得たのだと思います。

太閤様といわれるのは、まさにそういうことでしょう。

空海が有名なのは、香川県など各地で池をつくって、旱魃を防いだからですし。

人民にとっては、自分たちに最も大事なことをしてくれたかどうかということで、英雄にもなるし、信仰にも結びついてくるのです。

雨季の水は激しく、大量に流れる。

ところが雨が少ない冬になると、扇状地河川である鴨川は、河底が全部砂利だから水はザルみたいに地下へ浸透していく。

おそらく水はあるかないかというくらいの川原だったと思います。

それを人工的に浸み込まないようにしたのは、明治以降の河川改修によります。

1935年(昭和10)の水害の後には、床張りという工事が行なわれました。

川床にいろんな材料を入れて地下に浸み込まないようにして、水が維持されている。

それがなければ大半の水はもっともっと地下へ浸み込んで、水量は少ないだろうと思いますよ。

戦後の京都治水

京都、特に鴨川の特殊性が顕著に現われたものに、十五年戦争直前期1935年(昭和10)の大水害と治水計画があります。

軍備増強のために国債を発行することによって軍事資金を集めるのですが、鴨川の改修予算はその中に含まれて通るのです。

京都の治水は、そういう軍国主義の進行という時代的な制約を背負っているのです。

高橋是清が大蔵大臣のときには半分くらいしか国家予算を回さないと言っていたのを、説得している内に高橋が二・二六事件で暗殺されてしまった。

そこで軍備増強と一体になって、京都の治水予算が認められたのです。

戦争中にも2回くらい洪水があって堤防が壊れたりしますが、そういうものは国のお金で補修しています。

やはり京都は帝都という暗黙の了解があるのと、こういう非常事態だから川を放っておいたら国民の戦意を喪失するからと、京都に金を回して、川を改修させたのです。

金を取ってくる大義名分は天皇陛下のお膝元、帝都です。

しかも、懸案の都市計画も一緒にやってしまおうと考えた。

少し欲張っていたのですね。

疏水を埋めて道路を通し、京阪電車を地下鉄化しようとね。

そういう都市計画や景観の問題まで含めて改修事業をやろうとしていたので、予算が膨大に膨れ上がった。

こういう経緯ののち、1938年(昭和13)に鉄の供給がストップして地下鉄は完全に挫折してしまいます。

全部完結させるべきだったのが、社会が変化したために完全には実施できなかった。

単に川だけを見るのではなく、こういう川と人との歴史を知ることは、川の有り様を理解する上で大切なのです。

〈中略〉

ーーーー転載はここまでーーーー

まとめ(時系列順)

  • 鴨川の禹廟を作ったのは、儒学博士の中原朝臣為兼
  • 南に禹廟、北に弁財天を祀る

  • 密教(悪魔崇拝)が発展した理由の一つが災害(神の怒り)忌避

  • 孝徳天皇(日本書紀)と元明天皇(古事記)が禹に喩えられる
  • 元々の禹は治水神という扱いではなかった
  • 日本には古代から神道の瀬織津姫が治水神として祀られる

  • 京都では、鴨川の西側(平安京)は俗な世界で、鴨川を渡る東の地区は聖なる世界
  • その境界(五条大橋)に安倍晴明にまつわる法成寺がある
  • 京都で禹廟を管理していたのは陰陽師

  • 豊臣秀吉による京都改修によって、五条中州にあった法成寺や晴明塚や禹廟などは姿形を変えて四条に移した

  • 住居と人口は鴨川を越えて東へ東へと移動した(135度文明

  • 水害は多い時期と少ない時期を繰り返している
  • 平安京をつくるときに周辺の森を伐採したことが大きな理由
  • 山の森林の乱伐が原因で京都北部の丹波の山地に集めた
  • そのため、瞬間的に大量に水と土砂が流出してくるという状況になった

  • 豊臣秀吉は土木工事を行うために木を乱伐した
  • それにより洪水が多発したが、鴨川周辺の堤防技術が向上することになる
  • しかし、農村では洪水を受容することで土の入れ替えを狙うという農民にとっては非道な考えがあった
  • 故に河川のコントロールは、権力を誇示と支配の手段であることが明白になる

  • 高橋是清は京都の治水に国家予算を出し渋ったことで暗殺された(二・二六事件)

こちらの資料から大化の改新時の天皇である孝徳天皇が禹に喩えられています。

大化の改新は麻生太郎の先祖である足利鎌足が登場する時代ですが、この当時から既に日本は中国の属国でした。

禹王家の侵略は治水を利用したもので、都市開発と銘打って木の乱伐を行うことで洪水を誘発しておいて、それを治めるというやり口であったことが明白になりました。

このやり口は現代にも受け継がれています。

それが太陽光発電事業です。

木を乱伐して据えられた太陽光パネルは見るも無惨に廃墟化しており、災害を誘発する結果となっています。

太陽光発電事業の狙いは木を乱伐にあり、自然の猛威を庶民へと向けるために行われているのです。

その資金源も税金で徴収していくのですから、庶民の扱いは相変わらず獣のような扱いです。

このように日本文化への悪影響は計り知れないものがありました。

昔から都市開発は住民にとって悩みの種となる原因は、支配層の都合によるところが大きいということです。

しかも、災害と共に住民が滅んでもいいような状況を作り出しているのですからタチが悪いにもほどがあります。

そして、それは現代も古代と同様に治水を用いて支配してきた禹王家が日本を牛耳っていることが原因でした。

ここで話しを天皇家と禹王に戻しますと、孝徳天皇が禹で例えられているのに、宇多天皇のところへ禹がやってきたとはどういう経緯なのか?という疑問が出てきます。

その答えは古事記にありました。

ーーーーこちらから転載ーーーー

<中略>

この大國主の命の兄弟は、澤山おいでになりました。

しかし國は皆大國主の命にお讓り申しました

お讓り申し上げたわけは、その大勢の神が皆因幡《いなば》のヤガミ姫と結婚しようという心があつて、一緒に因幡に行きました。

時に大國主の命に袋を負わせ從者として連れて行きました。

そしてケタの埼に行きました時に裸になつた兎が伏しておりました。

大勢の神がその兎に言いましたには、「お前はこの海水を浴びて風の吹くのに當つて高山の尾上《おのえ》に寢ているとよい」と言いました。

それでこの兎が大勢の神の教えた通りにして寢ておりました。

ところがその海水の乾くままに身の皮が悉く風に吹き拆《さ》かれたから痛んで泣き伏しておりますと、最後に來た大國主の命がその兎を見て、「何だつて泣き伏しているのですか」とお尋ねになつたので、兎が申しますよう、「わたくしは隱岐の島にいてこの國に渡りたいと思つていましたけれども渡るすべがございませんでしたから、海の鰐《わに》を欺いて言いましたのは、わたしはあなたとどちらが一族が多いか競《くら》べて見ましよう。

あなたは一族を悉く連れて來てこの島からケタの埼《さき》まで皆竝んで伏していらつしやい。

わたしはその上を蹈んで走りながら勘定をして、わたしの一族とどちらが多いかということを知りましようと言いましたから、欺かれて竝んで伏している時に、わたくしはその上を蹈んで渡つて來て、今土におりようとする時に、お前はわたしに欺されたと言うか言わない時に、一番端《はし》に伏していた鰐がわたくしを捕えてすつかり着物を剥いでしまいました

それで困つて泣いて悲しんでおりましたところ、先においでになつた大勢の神樣が、海水を浴びて風に當つて寢ておれとお教えになりましたからその教えの通りにしましたところすつかり身體《からだ》をこわしました」と申しました。

そこで大國主の命は、その兎にお教え遊ばされるには、「いそいであの水門に往つて、水で身體を洗つてその水門の蒲《がま》の花粉を取つて、敷き散らしてその上に輾《ころが》り《まわ》つたなら、お前の身はもとの膚のようにきつと治るだろう」とお教えになりました。

依つて教えた通りにしましたから、その身はもとの通りになりました。

これが因幡の白兎というものです。

今では兎神といつております。

そこで兎が喜んで大國主の命に申しましたことには、「あの大勢の神はきつとヤガミ姫を得られないでしよう。

袋を背負つておられても、きつとあなたが得るでしよう」と申しました。”

古事記の記述をパートごとに分けてみよう

A プロローグ

①大国主は兄弟たちから国をすべて譲り受けた。

②その理由は因幡の白兎がきっかけになった。

③直接の原因はヤガミヒメである。

B 兎と鰐

①素兎は、隠岐から渡ってきた。

②素兎は海のワニと一族の数比べを持ち掛けた。

③海の鰐を並べてその背を跳んできた。

④ワニたちを利用しただけであることがばれて素兎は着物をはがされた。

C 兎が痛くて泣いていた理由

①身包みはがされた兎が困って泣いているところに、大国主の兄弟たちがやってくる

②海水を浴びた後に、風にあたって寝ていろと教えられる

③その結果、体を壊した

D 大国主との邂逅と兎の予言パート

①大国主からの助言

②兎の予言と神へ

となっている。

確かに、ウサギの皮がはがされたではなく、着物をはがされたといっている。

後世、誰かがウサギの着物を皮だと読み間違えたのだとわかる。

裸のウサギを素兎と記述があった。

素兎がなぜ白兎になったのだろうか。

また、海水浴の後、清水で体を洗わないまま乾かしたら、そりゃあ肌がピリピリするだろうし、古事記原文は自然の記述がなされているなと思う。

私たちは結構な思い込み・刷り込みでこの因幡の白兎をおとぎ話・ファンタジックにとらえているが、こうした姿勢をあらためないといけない。

以上のように、箇条書きすることで気になることが出てくる。

Aパートからわかること→大国主たち兄弟が内乱状態→同族内乱のちに勝者が大国主となった

Bパートからは→兎は海からやってきた。その際に、鰐に助けられた点。⇒鰐は海の一族で、兎を送り届けるために船を出したという暗喩?→数比べは到着した時のいざこざでは?

Cパートから→この記述はいるのか?ということ→いる→Bの結果、文字通り身ぐるみ剥がされた兎にさらに追い打ちをかけたということ

Dパート→大国主がヤガミヒメを娶って勝者になることを兎が予言し、神となる

予言をする兎?なぜ?兎が予言をするのか。

予言をするのなら、それは神だ。

「兎神と呼ばれている」というのは納得する。

ふと、兎はウサギじゃなくて、兎(う)なんじゃないかと思った。

確か、中国の古代王朝に兎という支配者がいたなと。早速、ネットで確認する。

いた。

正確には「」。夏王朝の支配者が禹だった。

しかも創始者だった。

え!?夏! ドンピシャ?なかなか侮れないぞ、直観。

古代中国の最初の支配者は伏犠や女媧という半身が蛇の化身。

蛇つまりは竜である。

そして、治水事業を行った人物とある。

紀元前千九百年ごろ。ちょっとウイキペディアのリンクを貼っておきますね。

さらに私が「これ!」と思ったのは白川静による「禹」は本来は蜥蜴や鰐・竜の姿の象形文字であり、起源は黄河に住む水神だという説。

「禹」は蜥蜴や鰐・竜の姿の象形文字なんだね?

形が長細いものを総じて禹っていうんだね?

水神が竜であるのもここからきてるんだね。

つながった。

「禹」は因幡の白兎であり、ウサギではなく竜。

また、白兎をだました鰐(古事記では和邇)もまたワニでなく「禹」だ。

もう一度言います。

あの一般的なワニではなく、学者らが良く言うフカでもなく、「八尋鰐」です。

八尋鰐というのは何か。

くどいようですが、海幸・山幸神話での豊玉姫がお産を参考にしましょうか。

兎と鰐は「禹」

海神の娘、豊玉姫が本来の姿になって子を産む姿を見られたくないからと夫山幸彦に念押しした後、産屋に入るも、あまりに苦しそうな声に山幸彦は心配になって産屋の中をのぞく。そこには、八丈の長さの鰐がのたくっていた、というものです。

八丈の長さは約24メートルだそうです。

これは、海龍でしょう?

アリゲータでもクロコダイルでもなければサメでもないと思いませんか?

だって豊玉姫は、大海神の娘なんですから。

つまり、鰐は海龍。

大海神の系統で禹もまた龍ってことになる。

因幡の兎だって、サメやワニの背を走っていくよりも竜の背のほうが走りやすいよね。

形が細長いものを総じて禹と呼ぶんだ。

そうすると、因幡の白兎のあの話は大国主とウサギのほのぼのファンタジーじゃなく、大国主たちが同族内乱をしているところに、海からやってきた(別に隠岐でなくてもよい)

兎が渡来し助力。

その際、海神族系の禹である鰐が船を出してくれる。

ただし、何らかの見返りがあったはずだが、結果として見返りはなかった。

「だまされた」と怒った鰐が報復し、弱まった兎に追い討ちをかけた八十神たち。

兎は大国主と出会い、体を治す。

そして予言をして、大国主が勝利。

建国神話としてはファンタジーよりも確かに相応しい!

それでは、鰐も兎も同じ竜系なのにどうして名前が異なるのか?という疑問が出てくるけれども、これは渡来時期が異なるからとしか言いようがない。

実際、兎は鰐の協力で海を渡ってきたわけだから、鰐はそれ以前に海原を開拓していたということでもあるし、兎のいた海の向こうの島(隠岐なのかは疑わしい)との航海ルートを持っていたと考えられるし。

それで、大国主時代に渡ってきた禹を兎とし、それ以前に渡ってきた禹は鰐とされたんじゃないかなって。

兎=禹なのか?

禹は土木事業や治水事業に長けた集団であることも分かっている。

もう一つ、禹が因幡の兎であることの証明をしてみようか。ウィキから「禹」の治水事業の部分を抜粋する。

“帝堯の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜に推挙される形で、黄河の治水にあたった。『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、どうも元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語のようである。”

わかりましたか?

禹は「身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになった」とあります。

もう一度、大国主と素兎との邂逅部分を確認します。

海水で痛みに苦しんでいたウサギの体に風が吹くと皮膚がひび割れたとありますね。

そこで気になるのは、禹の伝説は後世作られた恣意的なものだという部分ですが、これは禹という人物がそういうイメージを持たれていたと解釈すればいいわけで、うがった見方をすれば、因幡の白兎伝説の中国への逆輸入だとも考えられるわけです。

どうも日本人は大陸からの文化の輸入は当たり前だと思うのに、我が国からの輸出という部分を考えないという節がある。

往来があったのだから、知識も文化も混じりあうのが自然だろうと私は考える。

今日はここまで。

ーーーー転載はここまでーーーー

古事記には、鰐が白兎を連れてきたとあります。

(出雲大社)

それは和邇族(鰐)が禹王家(白兎)と合流したことを意味するということでした。

つまり、孝徳天皇が禹に例えられているは日本に先住していた和邇族で、宇多天皇のところへは後から来た禹王家が合流したということが分かります。

どちらも禹王一族だったからこそのカラクリでした。

さらに禹のシンボルは龍の化身だけでなく、形が細長いものにも適用されるとありました。

龍に見立てて、川や鰐などもこの範疇に入るとは驚きです。

そして、新たに分かったことは禹は兎で表されるという点です。

例えば、『兎と亀』という組み合わせは『禹と鯀』となり、亀が勝利することから親である鯀が勝利するという視点が生まれます。

『兎と亀』は中国的な考えに当てはまる話しだったことが分かりました。

さらに月に兎がいるという伝承がありますが、これは兎が仙薬を作るとされています。

仙薬は不老不死の薬だとありました。

これは出雲族が秦氏へ献上した変若水のことを指します。

出雲族とは青山家を指し、秦氏は蜂須賀家を指します。

そして、変若水とはアドレノクロムのことでした。

つまり、月で仙薬を作る兎は『アドレノクロムを製造する禹王家』であるということになります。

このように禹と兎には確かな関連性を見い出すことができました。

さらに月といえば、ムーンショット計画です。

人間を家畜のように管理するシステムを構築しようと企んでいるのは禹王家ですから、こちらもしっかりと符合してきます。

それでは、総まとめをします。

古代から日本を侵略して無神論を植え付けてきたのは、中国王家の禹王一族でした。

禹王一族は、神様に反逆して悪魔を拝むことで、この世の暴利を貪ってきたユダヤ人の末裔です。

彼らは『神への信仰』を『親孝行』へと摺り替えて庶民を騙してきました。

それは東の国に現れる神の使命者の影響を少しでも削ぐ目的があったのです。

それが無神論の国がアジアに多い理由です。

そして、禹王一族のやり口は治水にありました。

木の乱伐による洪水と洪水を収める治水技術を駆使した政治により、中国を治めて、日本を治めました。

いわゆるマッチポンプと呼ばれる自作自演の手法は古代から行われていたということです。

中国で禹王の名は治水を利用したことで広まりましたが、日本でも治水により安倍晴明や空海の名が広まり、密教は広まりました。

そして、現代では木の乱伐を正当化するべく、太陽光発電事業が治水に代わり推進されています。

このように禹王一族が正当化して行なっている悪事は随所にありました。

その一つに、孔子が人肉の酢漬けを食べていたように、悪魔崇拝者は人間を食べます。

しかし、古代のように食べる用の人間を何処らからでも調達できるわけではありません。

従って、人肉を集めるための方便が必要となってきます。

その方便が癌でした。

癌という捏造された病気により、切除しなくてもよい人間の肉を集めるのです。

禹王一族は古代のような悪魔崇拝を続けるために、現代では歪な嘘を刷り込まなくてはならなくなりました。

それは人間の次元が上がっていくに連れて法の整備が進み、殺人を犯す事が難しくなったからです。

このように悪魔崇拝者たちは各地で鮮度の良い人肉を調達する方法を確立したというカラクリになるわけです。

権力者は庶民を家畜同然に見ている背景をお分かり頂けたでしょうか。

現在までの常識は悪魔崇拝をするべく、騙しと嘘が根底にあります。

そこから抜け出すには、悪魔よりも次元の高い神様に依り頼む他ないということをご理解頂きたいと思います。

私たちは神様を信じることが人間として当たり前のことだと教えて貰えませんでした。

宗教はどこか胡散臭いと刷り込まれてきました。

それは何処もかしこも偽物しかいないという状況にあったからです。

しかし、本物が現れれば、偽物との次元の差を見せつけてくれます。

私は本物の実力を目の当たりにしました。

RAPTさんは悪人をリアルタイムで炙り出し、滅ぼしてくれます。

そして、神様のことを語って下さるときには、霊界の奥義や神様の心情を教えてくれます。

そこには本物の愛があって、私の間違った考えが、汚れを落とすかのように洗われていきました。

神様はいつだってもう一つ実を望まれています。

神様が助けたいと思っている方々がこの世界にはたくさんいます。

禹王一族の企みを打破していく人類史を積み上げていきたいと切に願っています。

ーーーー

今回は文量がとても多くなってしまいましたが、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

現代人に襲いかかる不幸の大半は悪魔崇拝者による嘘偽りです。

その嘘を皆さんと共に見破っていきたいと思います。

私は義人となり、多くの真理を学ぶことでこの世の出来事を理解することができるようになりました。

多くの時間を学びに投資しようと思ったきっかけは、善人は悪人に負けない強さを持つ人だとRAPTさんが教えてくれたことにあります。

どうか皆さん負けないでください。

気の済むまで真理を求めてください。

もう裏切られることなく、求めた分だけ真理を得ることができる時代となりました。

この祝福された時代に生まれたことを感謝して生き抜くことができるように、神様を知り、愛してください。

愛のある世界を皆さんと共に生きていけるように、私も精一杯の努力をしていきます。

皆さんに神様の導きがありますように。

朝の祈り会(有料)2023年1月30日

この世で勉強して知能を高めた人は、より高度な仕事をして出世し、大きな栄光を受ける。これと同じく、天においても、御言葉を学んで霊的な知能を高めた人は、より高度な文化・芸術を成して出世し、大きな栄光を受ける。

https://rapt-neo.com/?page_id=57700